司法制度改革 推進本部事務局 御中

刑事訴訟手続きへの新たな参加制度の導入中の

1裁判官と裁判員との役割分担の在り方

2裁判体の構成・評決の方法について、

バリュー判決 (Ballew v Georgia, 435 us 223 1972)

を参考にした一意見


目次

はじめに…本稿の送付趣旨

T.戦前のわが国の陪審制度が定着しなかった理由

U.A「刑事訴訟手続きへの新たな参加制度の導入」

に関する一意見

1.裁判官と裁判員との役割分担の在り方

2.裁判体の構成・評決の方法

V.資料 バリュー判決法廷意見拙訳

(Ballew v Georgia, 435 us 223 1972)



はじめに…本稿の送付趣旨


佐藤幸治先生をはじめとする司法制度改革審議会委員、裁判員制度・刑事検討会の皆様は、お一人お一人が立派なお考えをもっておられる方々と信じ(本文中で引用させていただいた佐藤幸治先生の書かれた青林書院新社憲法(初版)の明快さは今でも、私の学生時代の記憶とともに鮮明に蘇りますし、中坊公平先生が積み上げてこられた市民の人権擁護を実践する数々のご活躍も存じ上げております)、皆様が、訴訟件数の増加に対応しつつ素人裁判員が司法に参加する制度を構築するという難問に知恵を見出し、実際の立法時にそれが生かされることをお祈りしております。

日本の司法制度を、法の支配の観念の下で行政事件の裁判をも司法と観念する司法型とみなす私は、今回の改革が、さらに将来的には行政事件訴訟法にも人権保護上の観点から影響をあたえて、たとえば大阪空港事件訴訟の場合のように、行政事件訴訟法では市民の側に勝ち目のないものを民事事件として弁護士が工夫して法廷に臨むことなど不要な、英米法型の訴訟法体系に前進していくことを願っております。

本稿は、フランクなどを始めとするリベラリストたちの批判にさらされながらも連邦法域の刑事小陪審で12名構成、連邦法域の民事と各州の刑事民事 小陪審ではミニマムサイズとして6名構成が認められるアメリカの陪審制度に関し一つの先例拘束としての役割を演じたバリュー判決(Ballew v Georgia, 435 us 223 1972)の論を紹介することによって、今回の制度改革議論のなかで争点となっている1裁判官と裁判員との役割分担のあり方2裁判体の構成・評決の方法について、5〜6名構成にした裁判員に証拠主義に基く事実認定と法の適用の両面ついて関与させるべきである、という私見の根拠を綴ったものです。
   

なお、Vのバリュー判決法廷意見拙訳は、立派な語学力を有しつつもアメリカ最高裁判決の原文を取り寄せてお読みになる時間をお持ちでないかもしれない司法制度改革審議会委員、裁判員制度・刑事検討会の皆様ならびに今後立法に携わる方々に、僭越ながら参考にしていただく趣旨で送付いたしました。

ご一読いただければおわかりのように、バリュー判決法廷意見は科学的な証拠を論拠とする大変優れた論理構成で、陪審の実態を的確に分析しています。ところがその秀逸ともいえる論理は、ジョージア州の5人構成陪審を違憲とする根拠になっただけでなく、結果的には皮肉にも、自らが出したウィリアムズ判決の6人構成陪審合憲の判断の破棄をも要求する内容となってしまいました。

自分の語学力に赤面しつつもこの全訳をお送りする理由は、訴訟費用の増加や訴訟の遅延等の問題に対策を講じなければならなくなって久しい現代アメリカの現状下でも、6人未満への陪審の縮小が民主主義の根幹を揺るがすという危機感が伝わる判決文には、将来の日本の裁判員制度が経験するであろうと思われる問題の本質の一端がさらけ出されていると確信するからにほかなりません。

また、今回の司法改革に関心と期待を抱き、ある程度は司法制度に理解を持ち、民主主義のために尽力する意思のある素人が日本にはいることを法律のプロの皆様にお伝えすることも本稿の意図するところの一つです。



T.戦前のわが国の陪審制度が定着しなかった理由


裁判に非法律家を関与させた例として、わが国では、昭和3年10月1日からの15年間、大正デモクラシー期の大正12年に制定された陪審法に基づいた陪審裁判が行われ、昭和4年に最高の142件が陪審裁判によったもののその件数は年毎に漸減したのは、ご存知のとおりです。

初心に返って、なぜこの陪審制度が定着しなかったかを改めて思い起こすことは、今回の司法制度改革を実効性あるものとするためには避けて通れないと思われます。国民の裁判官に対する不信に劣らず、法曹の国民に対する不信が強いとされるわが国で、旧陪審法制定過程で見られた骨抜きに類する事が今回も行われてしまえば、司法の民主化はまた絵に書いた餅になる可能性があります。仮に、今回の改革もそうした不幸なものになれば、地球規模的には特殊ともいえる素人が裁判に参加しない非民主主義的なわが国の裁判制度に関し、ますますつのる国民の不満が犯罪を増加させる形で噴出する可能性は大きくなるかもしれません。

旧陪審制度の失敗理由には、少なくとも以下4点を指摘可能と考えます。

  1. 時代の流れが非民主化傾向をたどっていたこと

  2. 新制度のため法律家が審理方法に不慣れであったこと

  3. 国民も素人の裁判への関与の意義を理解していなかったこと

  4. 陪審法、諸規定が“陪審法にあらざる陪審法”と表現されるほど、その限界を有するような内容であったこと

1.2.3は昭和初期という時代背景を考えれば論を待たないことですが、4の“陪審法にあらざる陪審法”とする根拠は、以下のような諸規定の存在があるからです。

  1. 政治的犯罪の多くは陪審裁判に付し得ない(陪審法4条)

  2. 裁判長の説示に対して異議の申立をすることは許されない(同78条)

  3. 陪審が犯罪構成事実を決定するのに陪審員の評決は過半数でよい(同91条)

  4. 陪審の“答申には拘束力がない”(同95条)

  5. 陪審の“答申”を採択した判決に対しては上告のみが許され、事実認定を理由とする上訴は認められない(同101乃至103条)

  6. 請求陪審(同3条)については、有罪判決があれば有罪判決があれば被告人は陪審費用の全部または一部の負担を命ぜられる(107条)

上記失敗理由の1意外の2,3,4は、今回の改革でも繰り返される可能性が否定しきれません。わが国に今後根付く裁判への素人の参加を考えるにあたっては、歴史上の事実であるこの失敗例を反面教師とし2度目の失敗をしない努力を、司法制度改革推進とその関連立法に携わる方々に至上命題としてお願いしたいと思います。



U.A「刑事訴訟手続きへの新たな参加制度の導入」に関する一意見


1.裁判官と裁判員との役割分担の在り方



まず、この問題を論ずる大前提として素人の裁判への参加の憲法上の根拠が必要ですが、この点に関しては、佐藤幸治先生も青林書院新社“憲法”中で“…日本国憲法の司法権がアメリカ流のものと解する以上、一定の条件の下で答申に拘束力を認める陪審制の採用も、憲法上不可能ではないと解する余地もあろう。”と書いておられ、おそらく多くの国民も同意見だと思われます。

さて、この問題を論じるにあたっては、国民の気持ちを表しているある古いアンケートの数字から紹介をはじめたいと思います。これは、制度改革を論じるまえの事実認定と言うべきでしょうか。

1980年代に“陪審裁判を考える会”(代表倉田哲治弁護士当時)が行ったアンケート調査によれば、当時からすでに国民の刑事裁判に関する信頼は揺らいでいると判断せざるを得ない数字が残っています。昭和60年11月4日付け朝日新聞に掲載された上記考える会実施のアンケートによれば、刑事裁判が信用できるか、という問いに対して44%前後の人々が“あまり信用できない“と答えています。

当時、陪審裁判を考える会主催でおこなわれた、自白強制のために行われる留置所内での拷問の経験者(冤罪事件で起訴され、倉田弁護士の協力で無罪判決を勝ち取られた方)による講演の内容は、日本国内の犯罪捜査等にわずかな信頼感を抱いていた大学院生当時の私にはショックな内容でした。自殺の恐れありという理由で、自分の留置室内の枕もとに真夜中ずっと監視員がつき、その方が眠りかけるたびに枕もとのいすの脚をカタッと鳴らす方法で3日3晩起こされ続け、気が変になりそうだったとおっしゃっていたことを、私が一生忘れることはありません。

そもそも、この会のアンケートを待つまでもなく、刑事裁判運営の責任者である職業裁判官に対する国民の信頼が制度上保障されうるかをちょっと考えてみると、丸印の無記入を信任とみなすという偽善的な最高裁判事の国民審査の制度や、司法研修を終えただけで判事補として裁判所内部で子飼い主義的に育てられた若者を下級審の裁判官として最高裁が任命するという制度だけとっても、国民の信頼を勝ち取るに足るには程遠いといわざるを得ないものでしょう。

子飼い主義の弊害としては、よく判決文中に裁判官によって使われる“社会通念”なるものが、まさに裁判官自身が体得していない通念であろうとみなされることなど、裁判官と検察官以外の一般国民には説明の必要さえない事実であるものとして指摘可能です。その証拠に、日本以外には裁判官を公選制にすることによって、社会的な経験と知恵を有し、地域住民の信頼に足る人選を行う制度が採用されている国や地域が複数あるわけです。

(アメリカに限って言えば、連邦裁判所の裁判官は大統領による任命、各州の裁判官については、@公選制A立法部の選挙B知事による任命C州民審査制等の選定方式をとっています)

とくに近年は、複数の犯罪被害者や家族がインターネットという全世界の人に窮状を直接訴えうるメディアの発達とともに、凶悪犯罪の量刑に関する被害者本人、被害者の家族、そして国民一般の不満は募る一方です。

さらには、前世紀以来欧米先進国で主流である刑法解釈上の教育刑的な価値観は、特に日本のような東洋の一角にある非キリスト教国では法で強制されても揺らがざるを得ないのに対し、わかりやすく納得がいき復讐心や社会的正義心といった原始的な本能にもこたえうる応報刑的な制度には、数世紀単位以上の使用にも耐える明快な合理性があることは事実です。ですから、被害者やその家族には納得しにくい現代の教育刑的な側面を理性で強いる制度を今後長期にわたって続けることが仮に社会的正義に合致するというのであれば、その教育刑的な刑法存続のためには今回の司法改革は、司法制度が国民に支持されるその大前提となる重大な意味を持つものになると思われます。

ただ、この国民の抱く司法一般への不満は、裁判官や検事への不信感のみが原因となっているわけではなく、犯罪捜査において国民と直接最初の接点を持つ公安警察の不誠実さが国民の知るところとなったことにも大きな原因があるでしょう。

すでに、公然の秘密として、国民の人権を守るという目的のためには愚の骨頂とも言える組織内の各種の表彰制度の存在ゆえに、多くの警察では道路交通法違反者の検挙等に関してノルマがある事を知らされた国民が、この期に及んで犯罪捜査等の面で公安警察を信頼するはずもありません。

畳み掛けるように、多くの都道府県で警察の初動捜査と人権感覚の鈍さが問題とされる報道が続いております。一例をあげれば、記憶に新しい桶川のストーカー女子大生殺人事件では、殺された遺族から捜査協力の名目で借りた被害者女子大生本人の日記やメモ等が、公判中では、埼玉県警組織ぐるみの保身のための証拠として提出されるといった事実まで読売TV等で報道されております。

こういった昨今の事情を考えてみると、今回の改革が、司法の民主化と国民に信頼される司法を目指す趣旨の司法改革である以上、裁判員には事実認定とその事実認定に基づく一定の法的判断(有罪・無罪の決定及び刑の量定)程度の権限は付与しないと、国民がすでに抱いている司法の決定に対する絶望感と無力感を払拭し、権利のための闘争に自らがかかわることができるという存在感を国民に抱かせる制度改革にはなりえないと感じています。

これ以上国民の不満が蓄積していけば、過去10年以上にわたる政府の経済政策の稚拙さと不公平さへの怒りとあいまって、さまざまな形で各種税金の支払いを拒む国民が今以上に増え、国家財政も地方財政も今以上の危機に直面することになるのは時間の問題です。

ただ、裁判官と裁判員には判断能力の優劣が必ずしも認められない事実認定とは異なり、法解釈には一定の技術が必要なことは間違いありません。裁判員に法的な判断を求めるにあたっては、まず、事実認定と法解釈を分離して考えることを理解させる教育なり制度なりが不可欠でしょう。

また、憲法問題を含む法律問題の判断に裁判員を関与させるべきか否かに関しては、やはり関与させるべきだと思います。もし今回の司法改革で、国民が直接憲法解釈に参加できる何らかの可能性の糸口が見出せるなら、それは様々な点で国民にとっても国家にとってもマイナスを上回るプラスが待ち受けると確信しています。万一憲法解釈に素人が参加することに法曹が異議を唱えるなら、法曹には、戦後日本国憲法が出来た経緯を思い起こしていただきたいと思います。法曹の代表ともいえる東京大学教授が責任者を務めた1945年10月発足の憲法問題調査委員会の草案が、如何に非民主的で国民の意思とかけ離れ、GHQの意図も全く読み取ることの出来ないまさに戦後としての適切な社会通念の欠如した内容であったか、をです。

憲法の前文には、“…そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。…”とあります。日本国憲法のこの部分は、アメリカ人の素人の1女性が、ヨーロッパの自然法思想をもとにトーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言の考え方を取り入れ草稿した英文を日本語に翻訳したもので、万一憲法問題調査委員会の松本案が採用されていれば、法曹関係者からは全く相手にされなかったであろう社会通念に基く内容です。ところが現実には、この自然法思想がそれ以前の日本国民一般の考え方の中には存在しなかったにもかかわらず、現在にいたるまで憲法第96条による改正も一度も行われずに日本国民の中に浸透してきた理念であることは50年以上の歴史が証明しています。

このように素人の発想の豊かさや良識の習得度を考えてみると、日本国憲法の前文の“その権威は国民に由来し”の趣旨を単なるプログラム規定的に解釈しさえしなければ、法律問題の中では、憲法問題こそが素人である裁判員の良識に基づく判断を重視すべきものであるとおもわれます。とくに、たとえばドイツのように具体性のないケースも扱える憲法裁判所を別に設置せず、アメリカ諸州のように裁判官の公選制も採用していない我国こそ、素人たる裁判員の直接の判断を司法判断中に取り入れる工夫をすることが持つ人権保障上の意味は、一般国民の意思、知恵の反映という民主主義実現の点で大きなものであると思われます。

ただ、一般的な法解釈時以上に、裁判員が憲法判断のように非常に社会的影響の大きい司法判断を行うにあたっては、法的安定性確保のための先例拘束という司法の伝統的考え方の存在を裁判員に教育する必要があるでしょう。そもそも判決理由Ratio decidendiと傍論orbitar dicta の区別は法律家でも意見の分かれるところですから、事実認定と法解釈の区別の説示という実践的な問題とともに、今後新設されるロースクール(あるいは司法研修所?)の法曹教育の中で、在職中の裁判官、未来の裁判官双方に対して、裁判員に対する説示を行う技術の習得をさせる必要があり、それは今後、もっとも重要な法曹教育の一分野になると思われます。

なお、憲法判断によって違憲判決が出された場合の社会的影響等を職業裁判官とともに十分に検討できるよう、憲法訴訟には、非憲法訴訟とは区別した特別な討議方法、討議時間等を設けるべきでしょう。憲法解釈が国民生活に及ぼすはかりしれない影響を考えるとき、将来の訴訟件数の増加と審理遅延回避にばかり気をとられて非憲法訴訟と同じ制度しか採用しないとすれば、それは子孫の代にわたって国益に反する法解釈になる危険性があると言っても過言ではありますまい。


  1. 裁判体の構成・評決の方法



素人の司法参加をざっと地球規模でおさらいしてみましょう。まず、英米法系の陪審制度は、フランク王国の糺問方法inquisitionが1066年にノルマン海峡をわたって以来発達し18世紀末にほぼ現在の形態に等しいものとなったとされています。また、大陸法系諸国でも1789年のフランス革命を契機として各国に伝播し、参審制度の形で、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、北欧諸国、東欧諸国にも存在しつづけています。しかし、実際には、ジャクソニアンデモクラシー以来、人民による統治の伝統を誇るアメリカで、現時点でも素人の参加する陪審制度がもっとも支持されているようです。このことは、青少年犯罪に頭を痛めるアメリカ国内でティーンコートという制度があり、そこでは法曹資格のない青少年が裁判官、検事、弁護士、陪審員の役を演じて、有罪と判事されると街の清掃といった罰が与えられるというしくみまで導入されるほど素人の判断が尊重されることからも明らかでしょう。

この、全世界の80%の陪審裁判が行われている(H. Kalven & H. Zeisel, The American Juryによる)とされ、素人の裁判参加を肯定的に考えるアメリカ国内でも、20世紀後半の訴訟数の急激な増加には何らかの手を打たざるを得ず、1970年にウィリアムズ判決(Williams v Florida, 399 us 78 1970)で合衆国最高裁は、フロリダ州における6人構成刑事陪審を合憲とするに至ります。

その後の数年間は12人以下の陪審も多数決評決による陪審も合憲であるばかりではなくその程度も不明確となり、アメリカ陪審制度の暗黒時代とまで評される時期を迎えたあとで、1972年に合衆国最高裁でバリュー判決(Ballew v Georgia, 435 us 223 1972)が出され、ジョージア州における5人構成刑事陪審による裁判は、合衆国憲法第14修正の適正手続条項に反すると判断し、州裁判所の刑事陪審の6人未満への構成人数縮小化に歯止めをかけました。

このウィリアムズ判決とバリュー判決で最大の争点となった陪審員の数に関する合衆国最高裁判決は、今回の裁判員の数の決定の上で最も参考になるもののひとつであると確信しております。

裁判員の性質を陪審的なものとみなすか参審的なものとみなすかという審議方法との兼ね合いもあって、裁判員の人数を決定する根拠は多岐にわたるともあいまいとも言えます。ただ、わが国の憲法と刑事訴訟法上には、アメリカ法の考え方がその根幹の一部をなしてきていることを考えれば、少なくとも200年程度の歴史と経験を有するアメリカの司法制度を参考にして裁判員の数を決定することには、一定の合理性があると思います。ただ、連邦の刑事裁判で行われる12人制陪審では、昨今の訴訟数の増加に対応しきれないことも60年代後半以降のアメリカの司法史が証明しつつある事実です。

私見では、バリュー判決が示した最低構成人数である6人構成陪審が、わが国の司法制度ではひとつの参考になると思いますので、裁判員の数としては、陪審制であれば裁判員6人以上の構成、参審制であれば5人の裁判員と裁判官の合議が望ましい、という提案を申し上げたいと思います。

ただ、陪審制度と参審制度の違いから論を始めてわが国独自の制度を模索する以上、基本的に全員一致の評決方法を採用すべきか否か等は、評決時の裁判官との権限の関係等によりまったく意味が違ってきます。慌てずに、実際の運用時に、いくつかの細則決定前の期限と段階を設け、実際の運用状況に照らしてみて細部を煮詰めるという試行錯誤により、より民主的で効率的な制度の模索を実行すべきなのかもしれません。

この、裁判員の人数と評決方法の審議こそは、今回の司法制度改革を、国民の多くに納得の行く真に民主的な国家を目指す第一歩とも言える改革として成功させるか否かを左右する最重要要件だと確信しています。そのため、はじめにも書きましたように、アメリカの陪審制度における裁判員の人数と評決方法にもっとも大きな影響をもつと思われるバリュー判決の法廷意見全訳を以下V章に添付いたします。何かの参考にしていただければ幸いに存じます。



V.資料 バリュー判決法廷意見拙訳

(Ballew v Georgia, 435 us 223 1972)   

    以下、事件の概要と法廷意見の拙訳を示したバリュー判決は、実証的で的確な資料の利用により、陪審の縮小に関する判決の中では秀逸ともいえる(学会からもかなりの評価を受けています。Peter. W. Sperlich, …And Then There Were Six: The Decline of the American Jury, 63 Judicature 262, at 209 (1980))理論を展開しています。

ただ、バリュー判決は、その論の的確さゆえに、その論では違憲判断がなされる可能性のある同裁判所自身の下したウィリアムズ判決における6人構成の州刑事陪審合憲性(バリュー判決が5人構成刑事陪審を違憲とした判決理由は、ウィリアムズ判決が合憲とした6人構成刑事陪審をも違憲としてしまう)には意図的に触れなかったため、2つの判決に決定的な矛盾を提示することにもなりました。

この矛盾の背景には、陪審にかかる費用削減と訴訟の遅延問題の解消、裁判官の権限強化の意向、バーガーコート中のニクソニアン的刑事事件における有罪率増加の指向が考えられますが、これらの背景事情は、現代のわが国でも共通するところがあるものです。 判決文中には、司法界を取り巻く実際の状況からくる必要性と民主主義の砦を維持する必要性という相反する2面への解決策の模索に苦悩する最高裁の意図がひしひしと伝わってきています。
   

   
以下拙訳


バリュー事件の概要 

    原告クロード・デイヴィス・バリューは、猥褻で見苦しい場面を含む「ビハインド・ザ・グリーンドア」という題名の映画を、それが猥褻な性質のものであることを知った上で映写したため、ジョージア州法26章2101条の猥褻物頒布剤にあたるとして二つの訴因で起訴された。原告は、ファルトン郡刑事裁判所の審理において、5人構成陪審が選択され宣誓が終わってから12人構成の陪審を請求した。原告は、猥褻に関する審理には、たった5人で構成される陪審が現在の社会的基準に近いというには不適切であり、合衆国憲法第6修正及び第14修正は刑事事件において少なくとも6人構成の陪審を要求するものである、と主張したのである。しかし、ファルトン郡刑事裁判所は、ジョージア州憲法第6章16条1項、ジョージア州法2章5101条、そして1890−1891年法と1935年法に従って5人構成陪審で審理を行った。当該陪審は38分の討議の末2つの訴因につき有罪の評決を下し、裁判所は1000ドルの罰金で猶予される1年の禁固刑を言い渡した。再審理は認められなかった。

   原告は、ジョージア州中間上訴裁判所へ上訴したが、彼はそこで

  1. 証拠が不十分なこと

  2. 事実審裁判所は第1修正に関し多くの過ちを犯したこと、すなわち、当該映画は法的に猥褻ではなく陪審に対する説示が故意による猥褻の定義と社会的基準の範囲とを不正確に表したこと

  3. 映画の押収が違法であったこと

  4. 2つの訴因についての有罪判決は、原告が唯一の映画を上映したことから考えて、原告を2重の危険に立たしむるものであること

  5. 5人構成陪審の使用は、原告から第6、第14修正の陪審による裁判の権利を奪うものであること

を主張した。しかし、ジョージア州中間上訴裁判所も原告の主張を退けた。原告は、ジョージア州最高裁判所へサーシオレーライを請求したが、同裁判所は却下。ついに原告は、合衆国最高裁判所へサーシオレーライを請求。合衆国最高裁判所は、原告の提起した争点のうち、5人構成陪審の違憲性に関して問題が存在するとしてサーシオレーライを認めた。

   

合衆国最高裁判所法廷意見

     第14修正は、全州の非軽罪事件nonpetty criminal cases について陪審裁判を保障している。ダンカン対ルイジアナ州事件判決おいて当裁判所は、「刑事事件における陪審による裁判はアメリカの正義の実現形態にとって基本的なものである」として、この第6修正を諸州に適用した。この権利は当事件にも当てはまる。なぜならば[ジョージア州法]26章2101条に反した場合、最大限の刑罰は6ヶ月を超えるものだからである。(Baldwin v New York, 399 us 66, 68-69) ウィリアムズ対フロリダ州事件判決において当裁判所は、「陪審裁判の目的は、われわれがダンカン事件において述べたように、政府による弾圧を防止する事にある。『被告人に、彼の同輩が構成する陪審により審理される権利が保障されていることは、腐敗したり過度に熱中したりする検察官や、権威に盲従し偏見を有したり風変わりであったりする裁判官に相対する被告人に、計り知れない護衛手段を与える事になる』」とした。この目的は、有罪の判決をなす上での社会の参加と、陪審員としてその事件を考える素人の有する良識の適用とによって得られるものである。  ウィリアムズ判決は、これらの諸機能と目的は6人構成陪審により満たされうると判示した。判決の中で相当の紙面を割いて当裁判所の意見として示されているように、コモン・ローの陪審は歴史的偶然により12名を含んだのであって「まず第一に陪審に与えられた目的とは無関係だったのである」。当裁判所の以前の諸判決が12という数字を憲法上強制的なものとしたのは、それら諸判決が陪審の歴史と機能とを考慮していなかったからである。第6修正は、12人構成陪審を要求するというよりはむしろ集団討論を行うのに十分で、外界からの脅迫から免れていられ、社会の代表的一断面を反映するのに十分な可能性を有するに足る規模であることのみを命じているのである。1970年までにいくつかの実証的考察が陪審の行動を評価してきている事を認識しつつも、当裁判所は、6人に縮小された事によって陪審の評決の信頼性が薄れるとの証拠は見出すことはなかった。また、当裁判所は、不一致陪審hung jury の頻発を含めて、結果的に重要な差異を予見していない。なぜなら、規模における縮小が陪審員名簿(*注 この部分の原文はjury roles となっておりますが、jury rolls の綴りの間違いと思われますので陪審員名簿と訳出しました。寺崎)からいかなる特定の階級をも排除することはない以上、6人への縮小によって陪審の代表的な性質、つまり、社会の一断面を反映する性質が損なわれるとの心配は、「不合理なもの」に思われるのである。結論として、6人構成陪審は第6そして第14修正に反しないと判断されたのである。

   

    当裁判所がウィリアムズ事件判決において陪審の縮小を認めたとき…別の言い方をすれば、6人構成陪審が違憲ではないと判断したとき…当裁判所は6人未満構成が憲法上の審査を通過するか否かという争点に関する判示を意図的に保留した。(Johnson v Louisiana, 406 us 356, 365-366を見よ)当裁判所は、いわゆるスリッパリースロープslippery slope がどこで急すぎるものになるのか見定めることを拒否したのである。しかしながら、現在われわれは、2重の問題に直面している。すなわち

  1. 州の刑事陪審をさらに縮小すると危険すぎる段階を作り出さないか、つまり、重大な程度にまで制度としての陪審の機能を抑制するものになるか否か、そしてもしそうならば

  2. いかなる州の利益が縮小の合憲性を保持しながら陪審の崩壊とつりあいそれを正当化するのか

    である。

ウィリアムズ対フロリダ州事件判決とコルグロウヴ対バティン事件判決(Colgrove v Battin, 413 us 149(1973) この判決の中で当裁判所は6人構成陪審は、民事陪審に関する合衆国憲法第7修正の権利を侵すことはないと判示した)は、陪審の規模に関する多くの学問的な研究を生み出させた。

(原注10 M. Saks, Jury Verdicts (1977)(hereinafter cited as Saks); Bogue & Fritz, The Six-Man Jury, 17 S. D. L. Rev. 285(1972); Davis, Kerr, Atkin, Holt, & Mec, The Decision Process of 6-and-12 Person Mock Juries Assigned Unanimous and Two-Thirds Majority Rules, 32, J. of Personality & Soc. Psych. 1 (1975); Diamond, A Jury Experiment Reanalyzed, 7 U. Mich. L. J. Reform., 520 (1974); Friedman, Trial by Jury: Criteria for Convictions, Jury Size and Type1 and Type2 Errors, 26-2 Am. Stat. 21(April 1972)(hereinafter cited as Friedman); Institute of Judicial Administration, A Comparison of Six-and Twelve-Member Civil Juries in New Jersey Superior and County Courts (1972); Lempert, Uncovering “Nondiscernible” Differences: Empirical Research and the Jury-Size Cases, 73 Mich. L. Rev. 643 (1975)(hereinafter cited as Lempert); Nagel & Neef, Deductive Modeling to Determine an Optimum Jury Size and Fraction Required to Convict, 1975 Wash. U. L. Q. 933 (hereinafter cited as Nagel & Neef); New Jersey Criminal Law Revision Commission, Six-Member Juries (1971); Pabst, Statistical Studies of the Costs of Six-man versus Twelve-Man Juries, 14 Wm. & Mary L. Rev. 326 (1972)(hereinafter cited as Pabst); Saks, Ignorance of Science is No Excuse, 10 Trial 18 (Nov.-Dec. 1974) ; Thompson, Six Will Do! 10 Trial 12 (Nov.-Dec. 1974); Zeisel, Twelve is Just, 10 Trial 13 (Nov.-Dec. 1974); Zeisel, …And Then There Were None: The Diminution of the Federal Jury 38 U. Chi. L. Rev. 710 (1971)(hereinafter cited as Zeisel); Zeisel, The Warning of the American Jury, 58 A. B. A. J. 367 (1972); Zeisel & Diamond, “Convincing Empirical Evidence” on the Six Member Jury, 41 U. Chi. L. Rev. 281 (1974)(hereinafter cited as Zeisel & Diamond); Note, Six Member and Twelve Member Juries: An Empirical Study of Trial Results, 6 U. Mich. J. L. Ref. 671 (1973); Note, The Effect of Jury Size on the Probability of Conviction: An Evaluation of Williams v Florida, 22 Case W. Res. L. Rev. 529(1971)(hereinafter cited as Note, Case W. Res.); Note, An Empirical Study of Six-and Twelve-Member Jury Decision ? Making Processes, 6 U. Mich. J. L. Ref. 712(1973)

これらの論文は、ウィリアムズ判決中に明確に述べられた諸基準により要求される機能がそれ以下では果たされないという陪審員の下限に関して、明確に線引きしたり示したりしているわけではない。しかし、これらの論文は、6人未満への縮小に関しその賢明さと合憲性について重大な問題を提起している。われわれはそれらについて検討をする。

  1. 近年の実証的資料は、かなり小規模の陪審では実効的な集団討論を行いにくいこと示唆する。ある面でこの減少は、不正確な事実認定と事実に対する社会通念の誤った適用につながり、一般的には、集団の規模とその集団の行動・生産性との間には絶対的な相互関係がある、とするのである。(トーマスとフィンクは集団の行動と生産性の質の面でより小さな規模の集団がより大きな規模の集団に勝る条件は何もないとしている。Thomas & Fink, Effects of Group Size, 60 Psych. Buii. 371 373 (1963) ) この結論を支持するさまざまな説明がなされてきているが、それらの多くは特に陪審の構成について当てはめうるものである。集団が小さくなればなるほど、その構成員は与えられた問題の解決に必要とされる批判的な貢献をしなくなる。(Faust, Group versus Individual Problem-Solving, 59 J. A. & Soc. Psych. 68. 71 (1959), cited in Lempert 685 and 686) なぜなら、多くの陪審ではメモをとることが許されていないので、陪審の正確な討論にとっては記憶が重要であるにもかかわらず、陪審の規模が小さくなるにつれて証拠や議論の重要な断片のそれぞれを覚えている構成員を有する数が少なくなるからである。(Saks 77)結果的に、集団が小さくなればなるほど、的確な結論を得る上で構成員の偏見に打ち勝つことがより困難となるのである。(Lempert 687-688) 個人の決定と集団の決定とを比較すると、集団の決定のほうが個人の先入観がしばしば相殺され結果的に客観性を有し優れている、とされる。集団の決定はまた補強された理由付けと自己批判をも提示する。こうした利点にはすべて、おそらくは、自身による理由付けを除けば、集団の規模が小さくなるにつれて減少する傾向があるはずである。(Lempert 687-688) なぜなら、陪審は価値判断の選択に苦しむような複雑な問題に直面するのだが、個々人の利益も重要で守られなければならないものだからである。特に、さまざまな偏見の相殺は、いかなるときでも一定の事例の事実に正確な社会通念を適用する上で、決定的な意味を持つのである。

  1. 今日の資料は、いっそうの規模縮小により得られる結果の正確さに関し疑問を投げかけている。統計学的な研究は、陪審の規模が縮小するにつれて無実の人間を有罪にする危険(第1類型の過ち)が増加すると示唆する。なぜなら、真犯人を無罪とする危険(第2類型の過ち)は規模が大きくなるのに伴って増大するからであり(Nagel & Neef 945)もっとも望ましい陪審の規模は、この2つの危険性の間の相互影響の作用により選定されうるものなのである。ネイゲルとニーフは、この過ちを最小限にする目的でもっとも望ましい規模は2つの類型に付される重要性により変化すると結論する。第1類型の過ちが第2類型の過ちの10倍の重要性があるとするなら、おそらくこれは一つの不合理とはいえない仮定であろうが、もっとも望ましい陪審の規模は6人から8人の間としている。規模が5人未満に縮小されえると、無実の被告人を有罪とする危険を増大させ、重視される過ち(第1類型の過ち)の統計が増加してしまうというのである。(Nagel & Neef 946-948. 975, Friedman 23

    もう一つの疑問は、縮小に起因する更なる無定見さが非常に小規模の陪審を生み出すことになりはしないか、というものである。ザックスは、「陪審が一貫性を求めれば求めるほど、適正な(すなわち同一の)表決を選択し、より過ちの少ない陪審の評決の割合が増加する」と主張している。(Saks, 86-87)大学生と陪審経験者たちによる模擬裁判が判示した資料をもとに、ザックスは12人構成陪審と6人構成陪審により出される「適正な」判断の割合をはじき出した。学生による実験では、12人構成陪審の集団は、83%の適正な評決に達し、6人構成陪審では69%が達した。陪審員経験者たちの結果は12人構成で71%、6人構成では57%であった。

    ネイゲルとニーフは、H.カルヴァンとH.ザイゼルの「アメリカの陪審」460頁にある統計とあわせて、どんな陪審でも被告を有罪とするであろう事例に関して陪審が有罪評決を出す割合の平均をテストした。(Nagel & Neef 952. 971) ネイゲルとニーフは、12人構成陪審の半数がせいぜい20%の幅で変化する平均有罪率を持つことを見出す一方で、6人構成陪審の半数が30%の幅で変化する平均有罪率を持つことを突き止めた。彼らはこの差異を実際の裁判上でも平均値上でも重要なものとみなした。(Nagel & Neef 971. 972には以下のようにある。”If we apply the same probabilistic reasoning to the drawing of 100 sets of six-person juries, then we would expect to find 50 percent of our six person juries with pac averages within the range between 0.525 and 0.829. As the jury size becomes smaller, the range into which 50 percent of the juries are likely to fall becomes larger. Thus, while the 50 percent range for twelve-person juries involves a 0.20 spread between 0.58 and 0.78, the range for six-person juries involves a 0.30 spread between 0.53 and 0.83, a substantial increase in both absolute and percentage terms.”

    ランパートも常識の作用を満たすのに重要な現象、すなわち、構成員が各々の見解につき妥協することが期待できる事例に関して同様の結論に達している。ランパートは、民事裁判においては損害賠償額に応じた平均化が行われるが、刑事裁判における平均化は、訴因の数と犯行に含まれるより軽微な罪に関係し(Lempert 680)、大きな規模の陪審のほうがその妥協はより一貫したものとなると予言した。たとえば、12人構成陪審は4%の比率で極端な妥協に達することが予測されうるが、それが6人構成陪審では16%になるというのである。

    このように、これら3つのウィリアムズ事件判決以降の研究は、より小さい規模の陪審における評決の一貫性と信頼性とに重大な疑いを提起するのである。

  1. 資料は、刑事事件における陪審の討議の末の評決が陪審が小さくなるにつれて変化し、その変化は結局一方の側の、すなわち被告側の不利益という不公平につながると示唆している。ランパートもザイゼルも、不一致陪審の数は規模が小さくなるにつれて減少することを確認している。ザイゼルは、12人構成から6人構成への縮小に伴い、その数は半数…5%から2.4%…になるという。(Zeisel 720 ; Lempert 680) 両研究は、刑事事件における陪審が不一致となるのは、有罪を確信せずにいる1人ないし2人の陪審員によることが一般的であると強調している。(Lempert 674-677; Zeisel 719;) また、集団理論は、少数派に属する人は自分の立場を支持してくれる少なくとも1人の他人が存在するとき自分の立場により固執する、と指摘している。(Ash, Effects of Group Pressure upon the Modification and Distortion of Judgments in Group Dynamics Research and Theory, 189, 195-197 (2d. Ed. 1960), cited in Lempert 673) 陪審の討議時のこの傾向の重要性はこう証明されるだろう。すなわち、もし、ある少数意見が社会の10%の人々から支持されるものと仮定すると、12人構成陪審の28.8%が少数派の代表を含まないと考えられるが、6人構成陪審の場合には53.1%が含まないこととなる。さらに、12人構成陪審は34%の割合で2人の少数派の代表を含むことが予測される一方で、6人構成陪審ではたった11%のみとなる。(Lempert 669. 677.) 構成員が6人以下になれば、少数派の視点を有する1人の陪審員を含む陪審の数は更に減少し、少数派の視点を有する2人を含むことはそれ以下に減少する。不一致陪審の生まれる機会は、これに伴い当然減少するのである。

  2. 今まで述べてきた、陪審の規模の縮小に伴う少数派の視点の存在に関する事項は、陪審の評決決定に関してのみではなく、社会における少数派集団の代表性に関する問題をも提示している。当裁判所は、少数派ないし他に存在する集団が陪審に参加することを排除する限り意味ある社会参加というものはありえない、と判示してきた。「陪審が本当の意味で社会の代表組織となることは、公共的正義実現の道具として、陪審制度採用の中で確立された伝統の一部であり」(Smith v Texas, 311 us 128, 130(1940))社会の諸構成員の参加を排除することは「被告の権利のために選定、召還された同朋により構成されるという陪審の中心的概念と矛盾するものである」(Carter v Jury Comm’n., 396 us 320, 330(1970), quoting Strauder v West Virginia, 100 us 303, 308(1880)) ウィリアムズ事件判決において当裁判所は、6人構成陪審が社会の一断面を適切に代表しないではない、と結論したが、意味がありかつ適当な代表への機会は、陪審の規模に伴って間違いなく減少したのである。もし、少数派集団が社会の10%を構成するなら、無作為的に選ばれた6人構成陪審のうち53.1%は一人も少数派を含まぬことが予想され、さらに89%において2人を含むことはないのである。(Lempert 669. 677; Saks 90.) これ以上の構成員の縮小は代表に関して付加的な障害となるであろう。

  3. 多くの学者は、小さな規模の陪審と大きな規模の陪審の機能上の差異を覆い隠す傾向のある陪審研究の方法論的問題点を確認している。例えば、陪審制度は非常に多くの明白な事件を扱っているため評決決定者たちはその時代の多くの同様の分析を通して同様の結論に達する、とするものがある。ある研究では、小さな規模の陪審と大きな規模の陪審とでせいぜい14%の評決で不一致が存在しうるにすぎないと結論している。(Lempert 648. 653)したがって不一致はとても少ない比率で現れるというのである。しかしながら、全国的に見れば、この少ない割合も多くの事件で現れることになる。そして、陪審裁判の権利は、まさにこうした事件においてその最大級の価値を有するものなのである。事実に関する審理が尽くされた後でも被告の有罪無罪が明白でないときこそ、適切に機能する陪審制度が社会の常識に基く価値判断を保障し、さらに正確な事実認定を保障するのに役立つのである。(ザイゼルとダイアモンドは、Colgrove v Battin 413 us 149 (1973) で引用され論拠とされた研究を批判している。Zeisel & Diamond 287

    資料を集積した研究もまた、陪審の審理におけるケース・バイ・ケースの相違を覆い隠す危険を犯している。「アメリカの陪審」の著者H. カルヴァンとH. ザイゼルは、裁判官と陪審の判断の不一致を調査した。それによると、その当時、裁判官たちは57%を原告勝訴、陪審員たちは59%を原告勝訴としていたが、彼らはこれを重要とは言えない差異であるとした。しかしながら、ケース・バイ・ケースでの比較では裁判官と陪審の不一致が22%の事件で現れていることを示しているのである。(H. Kalven and H. Zeisel, American Jury (1966) at 63, cited in Lempert 656) このことは、6人構成陪審で審理された民事事件と、12人構成陪審で審理された民事事件の集計結果を比較する他の研究の結果に疑いを抱かせるものである。その論文を書いた研究者は、損害賠償額は陪審の規模によって変化はしないという自説を支持するように主張しているが、ある論者によれば、資料を集積した形ではこうした説を支持できるとしても、個々の事件についてのより細密な観察は、小規模陪審の結果によるものよりさらに大幅な多様性を証明するという。6人構成陪審では標準的に58335ドルであるが、12人構成陪審では24834ドルだと。(Zeisel & Diamond 289-290) 陪審の機能と行動を評価する場合、考慮さるべき重要なケース・バイ・ケースの差異を、ここでも平均値が覆い隠してしまうのである。

    我々は、ウィリアムズ対フロリダ州事件判決における我々の判断の立場を守りそれを再確認するが、1970年にウィリアムズ判決が出された後で行われたこうしたほとんどの研究は、6人未満に規模を縮小することにより刑事裁判における陪審の目的と機能が著しく弱められ更には憲法問題に至るものである、との結論へ我々を導いている。我々は、6人と5人の間に明確な線をひく意図のないことを素直に認める。しかし、集積された資料は、6人未満構成陪審の信頼性、適正な代表性に関して重大な疑問を投じている。アメリカの刑事司法制度にとっての陪審裁判の根本的な重要性を考慮すると、不正確でことによると偏向した決定をし、そのことが評決時に不適当な差異となり、陪審を真に陪審員自身の社会を代表するものから遠ざけるような、これ以上の縮小は憲法上の意味にまで達する問題となる。

    ジョージア州は、この事件において、5人構成への縮小が重要な第6修正上の利益を損なわせるものではないとの説得力ある主張をしていない。

  1. 当裁判所が以前より5人構成陪審を認めているとする前提の根拠を、ジョンソン対ルイジアナ州事件判決(406 us 356 (1972)に求めることが誤っている。ジョンソン事件において原告ジョンソンは、全員一致よりも少ない投票に基いて重罪に関する有罪評決を認めるルイジアナ州法に異議を唱えた。同法は、重罪事件の裁判において、訴追には12人構成陪審の中で9票だけを集める必要があると規定している。当裁判所は、当該法規が合理的な疑いの基準の緩和により適正手続の保障に反するものではない、と判示した。(406 us 356, at 363) 5人構成陪審…それほど重罪とはならない犯罪に関して審理するもの…に関する唯一の議論は原告の平等保護の主張についてのものであった。原告は、重罪事件においてそれを有罪とするには12人構成中9名のみを要するとすることは、軽罪事件の審理で全員一致評決が要求されることを考慮すると、平等保護の剥奪となると抗議した。そして、当裁判所は、単にその区別が不当なものではないと示したに過ぎない。(406 us 359, at 364) なぜなら、5人構成陪審の合憲性の争点はジョンソン事件判決時の当裁判所には存在しておらず、前述の判断は、その争点を考慮して示したわけではなかったからである。

  2. ジョージア州は、5人構成陪審の使用は軽罪事件においてのみであるから第6修正と第14修正に反するものではない、と主張する。ジョージア州は、ウィリアムズ判決において憲法上6人の陪審員で重罪を課しうるなら軽罪審理については5人構成で十分であろうと論ずる。この論争で重要な点は、陪審の目的と機能は陪審が裁く犯罪の重大性に伴って大きく変化するものではないことである。ボードゥウィン対ニューヨーク州事件判決(399 us 66 (1970))において当裁判所は、重罪事件でも軽罪事件でも陪審裁判の権利は付与される、と判示した。自由の剥奪が最小限の本当に軽度の犯罪に関する場合にのみ被告人は陪審による裁判の権利を有さないのである。このバリュー事件の場合、可能な自由剥奪の範囲は重大である。ジョージア州は、原告をジョージア州法26章2101条(1972)に基いて起訴、原告は1年の禁固と計2000ドルの罰金を命ぜられた。我々は、ジョージア州が一定の犯罪を重罪と選択する場合、その一定の犯罪と比べてもこの事件で社会通念が賦課、命令する要件が微小であると結論することはできない。この実効的な陪審の要件は、ウィリアムズ対フロリダ州事件判決において宣言され起用されものと同一の基準によって判断されなければならない。

  3. ジョージア州の主張する全員一致要件の保持は、第6ならびに第14修正上の問題を解決しない。我々の関心は、修正条項で命じられている諸機能を果たすためのより小規模集団の能力に関するものでなくてはならない。5人構成陪審が全員一致評決を出しうるということは、重要な討議に従事するその集団があらゆる重要な事実や主張を覚えていられるか否か、真に社会全体の通念を代表していられるか否か、という問題に答えることにはならない。つまり、全員一致の要件が存在しても、5人構成陪審によって「被告人が、自分と自分を審理、起訴する州の官憲との間に、自分の同朋による判断の介入を受けるという被告人の利益は同様に供せられる」(Apodaca v Oregon, 406 us at 411)と我々は結論することはできないのである。

  4. ジョージア州は、どの階級に対してもいかなる専断的な排除も行われていない以上5人構成陪審は適切に社会を代表する、と述べている。我々は、ジョージア州の制度が、人種に対する偏見に基く差別や他の不適切な区別等により平等保護条項に違反するようなことはない、との点では一致している。(Carter v Jury Comm’n 396 us 320(1970); Smith v Texas, 311 us 128 (1940)) しかしながら、前述の資料は、6人未満への構成員の減少に伴う真に社会を代表する陪審の能力に関し、重大な疑いを提起する。引用した諸研究が示唆するように、もし、より小規模の陪審が一貫性を失うようなことになれば、同種の事件において社会通念が同様に適用されることがないことになる。そうした状況下では、人種的少数派の代表性が脅かされるだけでなく、多数派の姿勢が少人数集団によって誤って導かれたり、少数派の立場が誤って適用されたりする可能性があるのである。たとえ、この事件の事実が平等保護条項下の陪審に関する差別にあたるとの主張を立証せずとも、代表性の問題が組み合わせられるときには、第6修正と第14修正という憲法上の意味の問題を生じる要素の一つを間違いなく構成することとなる。

  5. ジョージア州により引用された資料は、我々の疑いを緩和するものではない。ジョージア州は、陪審員の数の減少傾向が有罪判決や不一致陪審の総数に影響しないとの前提を支えるのにザックスの研究に依拠している。しかし、当該研究は、ザックスの多くの研究のひとつに過ぎず、その研究は最終的にこう結論している。「より大きな規模(12人)の陪審はより小さな規模(6人)の陪審より好ましい。彼らは、より長い討論を行い、より多くの意思疎通を有し、おそらくは、より信頼しうる(一貫性のある)評決を下す」(Saks 107) さらに、ザックスの研究は、我々の疑いを緩和するどころか、陪審の規模のそれ以下への縮小が第6そして第14修正の利益を脅かすとの結論を支持しているのである。

    方法論上の問題点は、ジョージア州が立場を支持する目的で引用した3つの研究に依拠することを妨げている。ジョージア州によって引用された2つのミシガン大学の研究の信憑性は多くの論文で批判されてきている。(Saks 43-46; Zeisel & Diamond 286-290)模擬民事陪審を用いたその実験上決定的な欠陥は、扱う事件の明らかな平明さである。不法行為法に関する裁判において、ただ一つの陪審も原告を支持しておらず、このことはより大きな規模のものとより小さな規模のものとの意思決定上のあらゆる潜在的な差異に覆いをかけてしまった。さらに、この研究結果は、学生のみで陪審を構成し、たった16の陪審しかテストをされず、模擬裁判のビデオテープのみが提出されたことによっても疑問視されている。(Saks 45) ミシガン州における実際の陪審裁判の結果の統計的な考察については、誤って結果を集積しただけでなく、12人から6人へ規模を縮小した当時想定された重要な裁判手続の変更も考慮していなかった、と指摘されている。(Saks 43-44; Zeisel & Diamond 288-290) また、デイヴィスの研究では強姦に関する模擬裁判を行っているが、そこでも特殊な一連の事実を提示したため、どの陪審も有罪評決を出していない。(Davis, et. al., supra, n (103), at7, criticized in Saks 49-51 )このように、これら3つの研究のどれもが、6人未満への陪審員の削減は刑事事件における陪審の機能に関して憲法段階に至るほどの影響を与えることはない、と我々に確信されるものではないのである。

    我々は、6人未満への陪審員の構成の縮小が第6、第14修正に関して重大な脅威を生ぜしめていることにつき、州のいかなる利益が縮小を正当化するのか考察しなければならない。我々は、陪審の規模を6人から5人に縮小することの中に重大な州の利益は存在しないと考える。諸州は、行政上の理由により12人以下の陪審を利用しており、裁判にかかる時間を短縮し費用を節約することは縮小を正当化するとも主張されている。(New Jersey Criminal Law Revision omission, Six-Member Juries (1971); Bogue & Fritz, The Six-Man Jury, 17 S. D. L. Rev. 285 (1972)) 確かに12人構成から6人構成への縮小による財政上の利点は大きなものである。このことは主に、より少ない(6人)陪審員たちが、事件を審理するのに伴って日当を受け取ることに起因する。しかし、本件で主張されている裁判費用の節約はそれほど明らかではない。パブストは彼の研究の中で、多くの質問が集団としての陪審候補者venire menに向けられるため、6人構成陪審における予備審問voir direにかかる時間は殆ど減らないと考えている。(Pabst, Statistical Studies of the Costs of Six-Man versus Twelve-Man Juries, 14 Wm. & Mary L. Rev. 326, 328 (1972)) 結果的に、審理に要する総時間は縮小せず、裁判は遅延し未処理分の改善は殆どなされない。重要な点は、6人から5人、4人、3人までの縮小であっても、州に節約をさせることにはほとんどならないというとである。州は、ほんの少しばかりの日当の支払いを減らすことはできるが、6人から5人の縮小に関してその節約は最小限のものである。もし、12人構成から6人構成への縮小で得られる時間の節約が殆どないものなら、6人構成から5人構成への縮小に伴うものはもっと少ないものになる。おそらくこれが、なぜジョージアとヴァージニアだけが一定の非軽罪刑事事件について5人構成への縮小をしているか、を説明する理由である。他の諸州は、6人構成あるいはそれ以上で満足しているのである。要するに、ジョージア州は、5人構成陪審への縮小につきほとんどない、あるいは全く存在しない正当化理由を申し立てているのである。

    したがって原告は、5人構成陪審による刑事事件の審理が、原告から、第6そして第14修正により保障される陪審による裁判の権利を奪うとの主張を立証したことになる。

    ジョージア州中間上訴裁判所の判決は破棄された。そしてこの事件は、この法廷意見と矛盾しないように以後の手続きを要求されるものとする。以上が判決である。



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